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【No.770号】 【発行日】2017/12/5 [8-2]
 つれ連れ草 -623- 練馬中学校校長 熊野 真司
● 『稽古』と『守・破・離』

【 記事 】

 大学生の頃、柔道部で毎日の厳しい練習に汗を流していた時、練習終了後、監督から「練習と稽古の違いがわかるか。」と問われました。練習も稽古も同じで、古い人たちが時折「稽古」と言っているのだろうくらいにしか考えていませんでした。しかし監督曰く「柔道は柔術と呼ばれた時代、いや古の時代より格闘技として幾千万の先人たちが工夫を凝らし、発展させ体系づけてきた。そこには想像を絶する努力と苦労があったに違いない。自分たちが今やっている工夫などは、たとえ歴史に残っていなくても既に多くの先人たちが行ってきた。故に古きことを考えるのを『稽古』と言う。我々は『稽古』をするのであって、練習をするのではない。」要するに「過去を学べ」と言うことです。それを聞いたとき、なるほどと思いました。それ以来、柔道の練習とは言わず稽古というようにしています。できあがったものを学んでいく、稽古とはそういうものです。もっとも当時は毎日の稽古を必死でやっているだけで、過去を考えながらなどと言うことはありませんでした。
 日本の伝統芸能である歌舞伎や能の世界でも、形を大事にし、それこそ何万回も同じことを繰り返し身に付けると聞いています。そこに日本人の美意識を感じるのは、私だけではないと思います。伝統を守り引き継いでいくと言うことは、とてつもない努力の証なのです。ただ過去に囚われてはいけないとも言われます。例えば武道の修行では『守・破・離』という言葉があります。先ずはじめは過去の形を身に付ける。次はそれを破って自分の形をつくる。過去を土台としながらも、そこだけに囚われることなく創造していく。そして最後は形からも離れ、状況に応じて自由自在に対応する。そこまで行けば、名人達人と呼ばれる人たちの仲間入りでしょう。このような修行の段階を表したものが『守・破・離』だと考えています。これは頭の中ではわかっても、なかなか思い通りには行かないものです。いずれにしても、大事なのは「守」ではないでしょうか。それどころか、形を身に付けるだけでも大変な努力が必要ですし、「守」を一生かかっても超えられないことがほとんどでしょう。だから『稽古』するのです。
 『稽古』に励み、『守・破・離』の道をほんの少しでも前に進みたいと思いつつ、努力を怠っている自分を許しながらの毎日です。

 1957年東京都生まれ 練馬区在住


光が丘新聞         2017/12/5

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