|
【記事】
「青ヶ島」を御存じですか。八丈島から南へ約70キロメートル、太平洋に浮かぶ小さな島です。7年前、私はその青ヶ島に赴任しました。帰京後5年が過ぎようとしている今でも、たった2年間の島の生活を忘れることができません。同時期に赴任していた同僚とは、今でも交流していますが、会えばたちまち島の話に花が咲きます。同じ釜の飯を食った仲とでもいうか、楽しいことも辛いことも共有したことによる強い仲間意識があるように思います。 私は単身赴任でしたので、ずいぶん寂しい思いもしました。東京への往復に5万円もかかるし、交通が不便で、週末にちょっと家に帰ってくると言える所ではありません。私は高校から親元を離れて生活していたので、一人暮らしには自信がありました。しかし、子どもである自分が親元を出て暮らすのと、夫であり父親である自分が妻子と離れて生活するのとでは、寂しさが全く違いました。家族を恋しく想った日々でもありました。 島には小・中の併設校が1つあるだけです。高校がないので、中学を卒業すると東京や八丈の高校へ行きます。仕事が少ないため、長じて島に戻って来る人はほんの一握りです。ですから、青ヶ島にとって十五の春は一大事業です。子どもは親元を離れる覚悟を強めながら大きくなっていきます。親も子どもを手放す準備をしておかなければなりません。我が身に引き当ててみれば、中学を出たばかりの子を手元から離すのはとても辛いことです。 3月末、一人の子どもが島を離れる日、ヘリポートに大勢の人が集まってきました。ヘリコプターの爆音の中、口々に別れの言葉をかけ、太鼓を鳴らし、大段幕を広げて送ります。でも、末娘を送り出すいつも寡黙な父親は見あたりませんでした。きっと、島のどこかでそっと見送っていたのでしょう。大段幕には、「おもうわよう」と書かれています。「さようなら」にあたる島の言葉です。いよいよヘリが飛び立つとき、太鼓が一段と大きくなりました。ヘリは一度飛んで行ってしまいましたが、島を一周して戻って来てくれました。粋な計らいです。そして今度は、物凄いスピードで飛び去って行きました。機体が見えなくなるまで、みんなずっと見送っていました。島での忘れられない一コマです。 生まれ育った地を見下ろしながら、あの子は何を想って島を離れていったのでしょうか。
昭和32年 山形県生まれ 板橋区在住
|